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2009年4月22日 (水)

【4】ホームステイ

4期生 原岡 修吾さん

私は1985年に第4期生として入学した。
25周年記念の際にいただいた資料を振り返ると、この年が最もホームステイ生が多かったのである。全校生徒約725名に対して572名がホームステイ生だったので約8割弱となる。
40あったホームステイの内30くらいは遊びに行っただろうか。また、自室にも数多くの友人を招いた。今回はそんな中で印象深かったホームステイについて回想をしたいと思う。

私がお世話になったのは1年生「さかえ」、2・3年生に「小池」だった。
「さかえ」も居心地は良かったのだが、「小池」のホストの比較的自由な方針に魅力を感じて友人数名と移動したのである。今は亡きホスト「じいさん」(当時の呼称)には本当にお世話になった。隣駅の深谷にある空手道場に通うことを許してもらい、夜遅くに車で本庄駅まで迎えに来てもらった。本当に親代わりとして我々のことを考えてくれていたんだと、今さらながらに感慨深くなってしまう。

楽しいことばかりのホームステイ小池であったが、他のホームステイのことも気になり、よく遊びに行った。建物(部屋)の雰囲気、暮らしているメンバー、風呂場、飯について、ホストについてなど、自分のホームステイと比較し、一喜一憂するのである。

最初に訪問したのは「二本松」だった。理由は単純で自分のホームステイ(さかえ)から近かったからである。
「二本松」は唯一の二人部屋であることが最大の特徴だ。クラスメイトの「なべ氏」が案内してくれた彼の部屋は8畳位の広さに勉強机が二つと二段ベッド。そしてそのベッドの上段にはラグビー部の「濱さん」がラグビーボールをひたすら磨いていた。1年生はボールを数個持ち帰って磨くのが日課だそうだ。
二人部屋ゆえ、仲が良いときは楽しいのだが、相棒と何かの拍子で亀裂ができるとお互いつらい思いをする。ここのホームステイの皆さんはいろいろと気を遣っていたのだと思う。

次に遊びに行ったのは「桜沢」だ。学院から最も遠いホームステイで、田んぼをいくつも越えてやっとたどりつく。「雨にも負けず、風にもまけず…」はまさにここに住む生徒にふさわしい。
ここでの思い出は卒業直前に炭酸水かけ(ビールかけの真似)をしたことだ。詳細は省くが、計画前のワクワク感と後片つけが大変だったことを記憶している。つまり、みんなでかけ合った瞬間はそれほどでもなかったということだ。

「藤五」も1年生の時はよくお邪魔した。クイーンをBGMにトランプ大会をした。留年した方も多く集まり、トランプのレベルは高かった。しかし、2年生になり、メンバーが入れ替わってからは遊びに行く機会がなくなった。

一番訪問回数(滞在時間)が多かったのは「千代田」であろう。ついつい遅くなり、土曜日はよく泊めてもらった。ここは20室すべて1年生だったのでにぎやかだった。
1年生しかいない開放感のためか遅くまで騒いで(+α)いて、学年で最初の院長説諭(&親呼び出し)という出来事もあった。しかし、院長説諭という不名誉な経験をした千代田生が3年から変わった。勉強に目覚めたのである。彼らはもともと仲間意識が強かったので一つベクトルが決まるとその実行力は目を見張るものがある。仲間で教え合い、励まし合ったのだ。その結果、個々の平均が10点アップし、ほとんどの千代田生が希望の学部へ進学した。ホームステイの良さの一つは、このような好循環が随所で見られるところだ。

遊びに行ったすべてのホームステイについて書きたいのだが、この「リレーエッセイ」は末永く続くはずなので、続きは次回とする。
総評ではないが、人気が高かったホームステイと評判だったのは「高仁」「町田」「高田」だったと記憶している。

人気のポイントは、

  1. 飯がウマイ。
  2. 建物(部屋)がきれい。
  3. ホストがそんなにうるさくない。

の3点。

この条件を満たしているホームステイは移動者(途中で他に移る生徒)も少ない。
特に「飯がウマイ」は重要である。不幸な例としては、熱帯魚のような魚がでる、朝は菓子パン1つ、味噌汁は器の底が見えるほど薄いなどと、料理センスが無いのか、あるいは経費節減なのか、ちょっとひどいホームステイもあったようだ。

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