2009年5月13日 (水)
【6】稲稜祭の想い出
3期生 上原 空也さん
私は3期生であるので、早大本庄を卒業してから20余年が経過する。
現在では、弁理士という天職を見つけ、知的財産に関する事件や企業のコンサルティングに全力投球をする日々であるが、学院時代は自分でもあきれるほど本当に怠け者であった。
「もう大学受験をしなくても早稲田大学に入れる。」という事実が確定した瞬間、いわゆる勉強をする気はその時点で完全に失せ、ひたすら眠り、授業中であろうがひたすら好きな作家の本を読み、そしてなぜだかひたすら「早く大人になりたい。」と願ったのを記憶している。
ちなみに、数学の授業中、その頃好きだった作家の本を熟読していると、某先生に発覚し、怒られるかと思いきや、「その作家が好きなら、君は○○という作家も好きだと思うよ。是非、読んでみなさい。」と平然と言い放たれ、何事もなかったように授業を進行されたのを今でも鮮烈に憶えている。本当に良い高校だった。
また、化学の某先生が、大講堂において学院生の不祥事(?)に対する生活指導の最中に、「日本の将来をリードしていくのは君たちなんだ!!」と口角泡を飛ばして演説している姿を鮮明に憶えている。その時は、わが身のだらしなさをかんがみて、とてもそんな話は信じられなかったが、現在、卒業生の各界での活躍をみてみると、あながち的外れな演説でもなかった気がする。
幸い周囲の優秀な友人のおかげで、留年もせず何とか法学部に滑り込んだが、そんな私が唯一、熱中できたのがいわゆる「稲稜祭」(文化祭)である。
一年生のときは、実行委員の一人であったが、二年で副委員長、三年では実行委員長になってしまった。
約百校以上の他の高校の文化祭の実行委員に対し、稲稜祭の招待状やパンフレットを送ると、相手の高校からも同様に招待状などが送られてくる。週末になるとその招待状を片手に他の実行委員達と共に、何校も他校の文化祭を梯子して、大いに交友関係を広げた。
当時は、学院は男子校であったので、普段はほとんど女子と話をする機会や友達になる機会がなかった。緊張のあまり、声と脚を震わせながら他校の女子と話をしたのを懐かしく思い出す。
数は少ないが、たとえば、当時の慶応志木高校の文化祭実行委員の方とは今でも交流が続いている。彼の勤務先が大手町で、私の勤務先が銀座なので、先日一緒に食事をした。
もっとも、800人近い学院生をまとめあげて、文化祭を成功させるのであるから、楽しいことばかりではなかった。「あちらを立てれば、こちらが立たず」という場面は山ほどあり、そのたびにクレームが私のところに来る。18歳なりに真剣に苦しんだのを懐かしく思う。しかし、社会にでても悩みは同じようなものである。18歳の特に苦しんで習得したクレーム調整術(?)は、現在の仕事でも大いに役立っている。
学院最後の年の稲稜祭が終わり、実行委員が集まって打ち上げをした際、感激のあまり涙を流してしまった。あのような涙は、4年前、初めて息子が誕生するまで久しく流したことがなかった。
書きたいことはまだまだ山ほどあるが、これからクライアントが来訪するため、時間が許さないので今回はここまでとさせていただく。
最後に、もし現在学院に在学中の方やこれから学院を受験しようかと迷っている方がこのリレーエッセイを読んでくださっていたならば、一言だけ申し上げます。
40年間の人生を振り返って見て、これは成功したなと思うことは、弁理士という天職をみつけたこと、今の妻と結婚できたこと、そして早稲田大学本庄高等学院で青春時代をすごせたこと、の三つです。
どうか、これからも自由闊達な素晴らしい学院の伝統を継承していただきたいと願います。
初夏、銀座のオフィスにて
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