2009年7月22日 (水)
【15】早大本庄の強みについて考察する
11期生 佐藤 順哉さん
「あいつ、いっちゃってるよなぁ」
本庄時代に仲間達との間でよく使っていた言葉だ。これは最高の賛辞の言葉である。
そもそも私が中学時代に早大本庄へ入学を夢見出した切っ掛けは同じ中学の2つ上の渡辺先輩だ。渡辺さんはお互いオジサンになった今でも会う時間をつくってくれて盃を酌み交わしながら大事な意見をしてくれたり悩み話を聞いてくれる大事な先輩だ。そんな渡辺さんは中学時代からいっちゃっていた。中学の休み時間には学校の体操服の袖を破った自家製タンクトップを着て、腰にミニアンプをつけて中学校の廊下をエレキギターでイングゥエ・マルムスティーンを早弾きしながら闊歩していた。今も続けている私の趣味のギターも切っ掛けは彼。私は中学1年生まではどちらかというと授業中も他の事を妄想したり宿題も当日学校に行って朝に慌てて仕上げるタイプだったが、そんな渡辺さんが早大本庄に入ったことに触発され、猛勉強して追いかける様に私も早大本庄に入学。
さすがあの渡辺さんが吟味して行った学校だけあるなぁ、と入学してすぐに感じた。
いっちゃっている人だらけで衝撃を受けた。今回皆様にご紹介する面子は上野先生率いた
11期F組。
当時ホームスティで禁止されていた個室テレビだが、ゲームマニアな西巻はホストのオジサンにバレない様にミニテレビを押入れの中に持ち込み、夜な夜なゲーム力を向上させた。5型ぐらいのミニテレビだから目の痛さは尋常じゃない。異常なオタク的集中力。今は経理マンとして立派に活躍し子供もいるが、現在もゲームセンターでは高校生相手にムキになり連勝を誇る。同じスティだったこともあり今も家族ぐるみの付き合い。
九州からやってきた小竹。最後は応援部主将まで勤め上げた。ケンカと麻雀と気の強さは半端なかった。なぜか高そうな長財布にお札がビッシリ、鉄が入った踵の革靴にパンチパーマに長ラン。我々の間ではあだ名は九州のインテリヤクザだった。噂は一人歩きし、なぜか我々の間では彼の父親の職業は九州系暴力団組長だった。雀鬼だけあって頭は抜群によかった。議論好きで論理的思考に優れていた。今の公認会計士という仕事は彼の天職だろう。
将棋が異常に強かった吉川。本人は将棋嫌いだが周囲は許してくれず、数々の将棋大会に出場していた。決勝戦で有利な対局まで勝ち進んだが、当日別の場所で開催されていた熊谷女子との合コンという山奥の男子高校生にとってはなんとも刺激的な誘惑が天秤の逆側に乗り、彼に言わせれば当然、とのことだが、彼の中ではクマジョが勝利した。投了し駅まで走って合コン会場に向かった。エンジンがかかると高い能力を発揮する頭の回転の速いやつだった。今では30代前半という若手ながら大きな仕事を任されているだけある。
アメリカに憧れていた嘉来。当時の彼にとってアメリカといえばハードロックだったのだろうか。ベースをやりはじめ、アメリカンロックを私と一緒にバンドでやった仲。帰国生の私が夏休みにシカゴにいる親元に帰った時に撮ったダウンタウンの写真を、彼が羨ましそうにしていたので彼にあげたら、後日彼のホームスティの部屋に大事そうに貼ってあった。アメリカ好きが高じて大学在学中、アメリカに留学し、今は早大本庄の英語科の教員になった。余談だが、当時から半田先生と嘉来は酷似しており、私はいつも二人の似顔絵を白い長机に書いていた。後日、その似顔絵に見知らぬ先輩から賛辞のコメントが書かれていた時は嬉しかった。
ここには書ききれない、書けない「いっちゃっている人」は他にも数多い。というか、全員がいっちゃっていた。先生方も含めて全員が何か強みを持っていた。そんな環境だから、皆自分の意見をきちんと持っていた。放課後仲間達と、フロントページといういつもの喫茶店にたまって雑談をしている時にひょんな話題で時事ネタニュースの話になったりすると、それは議論は白熱した。また、3年間の執行猶予が与えられているのびのびとした自由な環境だったが、全ては自己責任であり、自分で気付き、一線を超えぬ様に自分達を律していた。だからお互いのいっちゃってる具合を尊重し合い、尊敬ができたのだろう。
社会に出ても同じではなかろうか。すぐには叶えられなくても各自が己の理想を胸に抱いて、各自が自分の強みを持ってその理想像に向かって邁進する。これが人生ではなかろうか。時には迷い、悩むこともあるだろうが、己を信じて、自身を律して、仲間達と相談し合い、行動に移していくことが大事ではなかろうか。私はこれからの人生も早大本庄魂を胸に、久遠の理想を追い求め日々自己研鑽していこうと思っている。
※写真1:真中は当時、卒論で大変お世話になった加藤先生。私佐藤を同窓会山辺会長にご紹介して下さった恩師。右はアメリカ好きな嘉来先生。左は佐藤。
※写真2:渡辺さん、西巻らと生活したホームスティ高仁。軽音楽部の部長が3代(渡辺氏、山田氏、佐藤)が勢ぞろいしていたためテスト明けは各々のドアを開け放しギターアンプ最大音量でギターセッションが繰り広げられた。数々の騒音、スティ及びご近所の皆様誠に申し訳ございませんでした。
※写真3:仲間達と毎日集っていた思い出の喫茶店「フロントページ」
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■コメント
高仁、懐かしいですね。
あの頃はギタリストだらけでしたが、弾かない自分も特にうるさいと感じたことは無かったですよ。
やりたい放題の中にも節度は有ったんじゃないでしょうか?
ところで君の下の名前って、全く違うのを覚えているのですが…。
投稿: 浪川亮 | 2010年3月31日 (水) 23時34分
浪川さん大変ご無沙汰しております!
コメント頂戴しまして有難うございました!
とても驚きました。
下の名前は、そうですね、あだ名は「王子」でしたね。
懐かしいです。高校入学後、最初の試験がサイド
リーダー「幸せの王子」でした。当時まだ受験モード
が抜け切らず必死に勉強しすぎたせいで、夜に僕が
ホームスティ高仁で寝ぼけて(?)大声で叫んだ
「有難う!通りすがりの王子様!」・・・。
翌朝学校に行ったら知らない先輩からも「おはよう
王子」と呼ばれ・・・。浪川さん含めた高仁の先輩達
の行動力の速さに驚きました。
そのあだ名は大学でもずっとそう呼ばれ、しまいには
後輩は私の本名を知らないまま。そして社会人になっ
て得意先とバンドやってますが、そこでもなぜか
「王子」と呼ばれてます。はにかみ、ぽっちゃりより
前に1992年に元祖王子を確立していたんですね。
連絡先の交換したいですね。
今年はホームカミングデイ開催が予定されて
おります。是非お会いしたいです。
投稿: 佐藤順哉(王子) | 2010年4月 3日 (土) 10時01分