2009年10月14日 (水)
【22】野球部 創成期の思い出
1期生 山邉 裕道さん
野球場と見紛うばかりに、広さ・設備の整った現在の野球部練習グランド。そのため、練習試合に訪れる他校も多いとみられ、バックネット裏のスコアボード脇には相手チーム名の書かれたプレートが複数無造作に置かれている。そんな風景を見るにつけ、30年弱前、略同場所からスタートした早稲田大学本庄高等学院 硬式野球部創成期が脳裏に蘇る…。
学院設立当初、野球部の練習は、体育授業で使われるグランドの一角で、「有志」が道具を持ち寄って行われていた。フェンスなど無く、ボールが草むらに飛び込む度に【この付近 まむしに注意】の看板を横目に、恐る恐る探したものである。
暫くして、「近隣」企業の社会人チームの専用グランドを借りて本格的に練習に取り組むことになる。「近隣」といっても学院から数㎞離れており、ヘルメット・バットの道具類は、グランド脇の駄菓子屋さんに置かせてもらった。グランド周囲をランニングすることもしばしばあったが、一度、事件(故?)が発生した。
集団から遅れ気味の一群(3人)が、近道をしようと畑を横切った際、足元を取られた。肥溜であった。幸い一命は取り留めたが、グランド脇を流れる川で洗濯をすることとなってしまった。
野球グランドができる迄の約1年間、自宅→学院→グランド→自宅のルートを自転車で通ったが、車の免許取得後、距離を測ったところ30㎞であった。
初めての夏の甲子園地方予選への参加は、2年生の時であった(3年生は勿論おらず、1・2学年のみでの参加)。相手は、駅伝等で有名な埼玉栄。試合にはならず、5回コールド負け、投手である私は4本塁打を打たれた。
但し、『真夏の球宴』(夏の大会時、球場で販売されている選手名鑑・記録集)において、「1試合最多本塁打 埼玉栄 対早大本庄」と鈴木健(西武→ヤクルト)擁する浦和学院が記録を更新するまでの数年間、名を残した。
野球部員の出身地は国内に留まらず(東北~九州)、フィリピン・トルコ・ベネズエラからの帰国生とバラエティに富んでおり、試合中の野次も多彩であった。
博多弁の勢いある声援?は、免疫のない者にとっては相当堪えたらしく、試合中審判から何度もご指導を受けた。
また、野次将軍として活躍した者(一時期、大声の出しすぎで肺気胸を発症)は、今でも夏の大会時、スタンドの応援席を大声で仕切っている。
環境的には必ずしも恵まれたとはいえず、輝かしい戦績を残せなかったが、野球が心底好きな仲間と手作りで野球部の歴史を積み上げられたことは貴重な経験・財産となっている。
今でも、田辺初代野球部監督を囲み、年1回ゴルフコンペを開催(①今年で14回を数える。②当初、夏の甲子園予選大会と同時期の7月下旬に開催していたが、選手年齢が上がる過程で5月に変更)、また、年に数度、情報交換(飲み会)を行っている。
いつの日か、甲子園球場で「都の西北」を歌うことを願いつつ…。
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