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2009年12月23日 (水)

【26】都の西北で

23期生 伴 卓さん

早稲田の人間なら知らないはずのないこの言葉、「都の西北」。3番まである校歌の歌詞を全部は歌えなかったとしても、この部分を忘れる卒業生はまずいないはずだ。もし居たとすれば、きっと何かの間違いで入学してしまったのだろう。
昨年行われた第2回ホームカミングデー。歴代の卒業生が本庄高等学院の食堂に集い交流する。今からお話しするのは、その最後に全員で校歌を歌った時の出来事である。

2005年3月。自らの怠りと、その他の複雑な事象があいまって2年生を仕切り直すことになった。誰が悪いわけでもなく、なぜか本庄、そして早稲田が嫌いになった。落第が決まった時、私は日本から遥か南の豪州にいた。あの瞬間はいまだ忘れたことがない。
語学学校を終えた夕方、日本へ進級に関する連絡を入れると父から「残念だった。明日にでも帰ってこられるか?」とやさしい口調で言われた。人生でおそらくこれほどに「どん底」を感じたことのない瞬間だった。異国の地の電話ボックスで1時間ぐらいは放心状態に陥り、ホストファミリーが心配して車で迎えに来てくれたことも明確に覚えている。

滞在して5日目だった。5週間の滞在を急遽切り上げ、翌日帰国。そして翌日には教務室。自分を観る周囲の目が怖かった。先生たちは全員、私の進退に関して知っている。笑顔であいさつするその笑顔がとても自分の中で解釈するのに時間を要したのを覚えている。

「1週間時間を与えますので、もし転出される場合は一週間以内にご相談ください。」
担任からそう告げられると、翌日から直ぐにでも本庄から出ようとした。
幸い陸上での成績かあったせいか、地元の高校で何校か受け入れ可能の返事をいただいた。
「ここで転校すれば自分の学歴に汚点はつかない。陸上も続けられる。」
こんなことを考えていた。

一週間後、本庄に意向を伝える時が来た。
「もう一度、2年生をやり直させてください。」
震える右手で、知る人ぞ知る「落第受け入れ書」にサインをした。
このまま転校してしまえば、単なる逃げでしかない。ここで逃げれば、それは自分の人生を一生追いかけ、どこかでまたその試練は何倍にもなって訪れる、そう考えた。

新学期が始まり、最初の一カ月は本当に精神的にきた。寮の飯は食べられない。気持ちは不登校。クラスには居づらく、かつての同期は先輩に。精神的にはかなり厳しいものがあった。しかし、いつしかそんなことは消え去り、次の目標に向かう自分がそこには居た。
普通の高校生には当たり前のことすぎて笑われるかもしれないが「絶対進級」だった。
試験前には近所の図書館にこもり、危機感におびえながら机に向かった。あからさまに昨年とは異なった自分になっていた。気がつけば3学期の期末考査を終え、2度目の挑戦は功を奏した。

はっきり言って「あいつは馬鹿な奴だ」と言われればそうかもしれない。当然自分のことをけなす仲間もいた。しかし、それ以上に支えてくれる人のほうが多かった。
あの時俺をバカにした奴は面白がっていただけなのかもしれないが、それはそれで構わない。それが俺の財産になっているからだ。お陰さまで、大分蓄えさせてもらったな。
高校時代に貼られたレッテルが、数年後どんなに輝かせるだろうか、自分次第だな。

こんな思いが3番を歌うころには鮮明に蘇り、気がついたときは涙をこらえることができなかった。母校の校歌を歌って泣いたことは初めてである。それも卒業式の様な寂しい、悲しい涙なんかじゃない、なぜか嬉しい涙を。

今私は大学3年生として、再び挑戦の場に遭遇している。不安もあれば怖いことだらけである。しかし、何もしないから何も生まれない。ごくごく当たり前のことかもしれないが、骨身に染みているものは強者だと思う。

どんな形であれ人生初の挫折は私を何倍にも成長させてくれた。
もしかすれば次の挑戦が再び失敗に終わるかもしれない。しかし、得るものは沢山あるはずだ。そして自分は成功するまで諦めない。

正直、居心地のいいせいか、大学に入ってからというものの緩みっぱなしの自分。このままでは前轍を踏むことになる。この緩んだ糸を、年越しを機にもう一度ピンと張り詰め、最高の状態で自分を売り込んでいきたい。

私は逃げない。神様は乗り越えられない試練はお与えにならない。
逃げた試練はやがて何倍にもなってまた遭遇する。

あの時逃げ出さなくて本当によかった。支えてくれた先生、そして一番応援してくれた両親には本当に感謝している。
少しでも孝行できるように、最善を尽くして春を迎えようと思う。
本庄高等学院で青春時代を人より少し多く過ごせたことは、本当に貴重な時間だった。
好きな色はエンジ。血液の色もエンジ。そんな自分が今ここに居る。
やっぱり自分は早稲田が好きなんだな。本庄での長期滞在は望ましいことではないが、これぐらい母校を想える卒業生を今後も輩出してほしいと願う。

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■コメント

こんにちわ。第25回のエッセイを書いた1期生の木鋪(きしく)です。貴殿のエッセイを読みエールを送りたくなりました。高校時代が1年長かったからといって落ち込むのではなく、それを糧として頑張ろうとする姿勢に感動です。私は社会人となって20年以上が経ちましたが、1つの失敗でめげているような人間は決して大成しないと思います。失敗を次の成功に変えていくことができるのが早稲田マンだと信じます。是非頑張ってください。

投稿: 木鋪 万裕 | 2009年12月23日 (水) 17時31分

木鋪先輩へ
今回のエッセイは就職活動で自己分析をし、高校時代を振り返っていたのですが、急に思いを書きとめたくなり勢い余って書いてしまいました。
最近の本庄の学生は、本庄での数年間を大学への通過点にしか考えていない学生が多い気がします。
そんな周りに比べれば、自分は本当に濃い高校生活を過ごせたと思っています。
御感想をくださり、ありがとうございました。

23期生 伴 卓

投稿: 23期生 伴 卓 | 2009年12月24日 (木) 00時20分

初めまして、と言いたいですが、おとといお会いしました。下北沢トリウッドで。
エッセイをお読みして、自分の学院生時代を思い出していました。
僕は学院入学時、補欠だったので、周りの学院生にはずっと劣等感を持ってました。
そんなもやもやした気持ちを吹っ切りたい、という思いもあって、在学時、URBANDASHという映画(らしきもの)を撮ったのですが、その時手伝ってくれた仲間と心を通わせる事が出来て、3年目にしてやっと何かを乗り越えた気になれた記憶があります。

心ない連中というのは、どこにでも居ると思いますが、伴さんのように、最終的に笑顔で乗り越えていく人に、僕はエールを送りたいです。

勝手に親近感を持ってしまったので(笑)、コメントさせていただいた次第です。では!

投稿: 犬飼俊介 | 2010年2月 8日 (月) 01時49分

犬飼先輩

コメントをいただきありがとうございました。
先日は映画公開おめでとうございました。国語科の吉田茂先生もご鑑賞されたかったそうです。あいにく仕事が忙しくて下北沢に駆けつけることができなかったと残念がっておりました。

今思えば自分のまいた種で苦しんだわけではありますが、当時の私にとってはやはり衝撃的なことでした…ww 逃げ出さなかった自分が今の自分を強くさせていると思います。

先輩の映画を見ていて「本庄の人間のすごさ」を感じながら鑑賞させていただきました。

また同窓会でもお会いでいることを心待ちにしております。

投稿: 伴 卓 | 2010年2月16日 (火) 13時53分

当時からたくましかったですが、なお一層たくましい言葉を聞けてなによりです。自分も早大学院から法学部へ進み、早々に卒業まで5年はかかるとわかったときの挫折感を思い出しました。人生、成功から学ぶことより失敗や挫折から学ぶこと、肥やしにできることの方が多いです。今でもそう思います。
ますますのご活躍を祈念しています。
2004年度父母の会会長(当時は父母の会、今の保護者の会)

投稿: 加藤毅 | 2010年7月21日 (水) 15時36分

加藤毅 様
お久しぶりです加藤さん。お元気でしょうか?
早いもので何とか卒業した本庄を経て入学した大学ですが、こちらも早いもので卒業を待つばかりの日々となりました。
最近は内定先の研修を兼ねたアルバイトや、国会でのインターンに精力的に活動しています。
毎週毎週があっという間に過ぎ、前期も気がつけば期末考査だけになりました。後期はより科目数が減り、より充実した学生生活を送り、長らくの学生生活に終止符を打つこととなりそうです。

しばらくお会いしていませんが、またお会いしたく思います。コメントを頂きありがとうございました!

投稿: 伴卓 | 2010年7月22日 (木) 22時54分

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