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2010年7月28日 (水)

【38】9.11同時多発テロの想い出

3期生 上原 空也さん

このリレー・エッセイの本来の趣旨は、「本庄時代の思い出を書く」ことだったと思います。
しかしながら、昨日までかなりハードで複雑な事件のため出張にでており、帰宅後、Todoリストをみて、本日がエッセイの期限だと思い出しました。風邪のせいか、珍しく心身が疲労しており、20数年前の本庄時代の記憶が断片的にしか思い出せず、なかなか文章としてまとまりません。そこで、本エッセイの趣旨から外れて申し訳ありませんが、「一人の本庄生の卒業後の姿」として、社会に出てからの思い出深いエピソードを今回のエッセイのテーマにさせていただきます。

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20代で弁理士試験に合格して数年が経った頃、ニューヨークの法律事務所に仕事で行った際の出来事である。。

仕事もほぼ終わり、いざ帰国する際に「9.11」の同時多発テロが起きた。

その日の午前中は、事務所に行く必要がなかったので、妻のリクエストにより、映画「ユーガッタメール」の舞台となった、アッパーウエストサイドのカフェで食事をしていた。

ほどなく、一見して明白に速度制限を超過した、大量の消防車・救急車・パトカー、および最後にはミリタリーの大型車両などが、世界貿易センター(WTC)のあるダウンタウンに向かって轟音とともに疾走していくのが見えた。

最初は、ガス爆発か何かだろうと思い、「ガスの元栓には気をつけよう」などとのんきなことを考えていた。しかし、しばらくたつと、どうやらアルカイダのテロリストがハイジャックをした航空機でWTCに突っ込むという同時多発テロが起きたらしいということがわかった。

ニューヨーク中の全ての交通手段が遮断され、全ての人々が歩いて移動をはじめた。途中、家族や友人・恋人の生命が既に絶望的であることを知らされた人々が、道端で泣き崩れたり、携帯に向かって必死で問い合わせをしていたり、意味のわからないことを暴れながら絶叫している光景が散見され、まさに阿鼻叫喚の世界が展開された。

不謹慎ではあるが、商標を専門とする弁理士の目でその時のニューヨークを観察すると、スターバックスやマクドナルドなどのいわゆるジャンク・ブランド達は、早々に店をクローズさせ、閉店していた。店の中は、ほとんど何の片付けもされていない。

一方、ティファニーなど高級ブランドが並ぶ5番街では、あれほど街が狂ったような状態になっていても、ほとんどの店が悠然と営業を継続していた。

興味深く思い、ティファニー本店に入店し、店員の方に「テロがあったようだが、閉店しないのか?」と尋ねると、「ティファニーの警備は完璧だ。テロや暴動など全く心配していない。」という言葉が返ってきた。その矜持の高さに震えるほど感服した。それ以来、ティファニーは、私の中では特別な存在となっている。

テロ後、まず直面した問題は、外国人に対する米国人の態度が、事件をはさんで一変したことである。巷間よく言われる、米国人が普段はひた隠す、強烈な人種差別の意識が、社会の動乱を契機に顕在化したのだと思われる。顔なじみのホテルの警備員がなかなかホテルに入れてくれない。何箇所かで屈辱的なボディーチェックを受けて、ようやく部屋に戻れた。私の顔が「アルカイダ」っぽかったからかもしれないが。。。また、イスラムの衣装をまとった人間はことごとく攻撃の対象とされ、街角で兵士達がイスラム教の女性とその子供を銃でこづき回している痛ましい光景も目にした(でも、勇気がなくて止めなれなかった)。

なによりもまして、最も大変だったのが、いかにして帰国するか?の問題である。お世話になった現地の法律事務所のツテで入手できる合法的な航空チケットは、どんなに無理を言っても1月先のものである。

そのころ勤めていた日本の特許法律事務所に「帰国は1月以上先になる。」旨を連絡すると、「君は、何を寝言を言っているんだ!大切なM商事からの新規依頼が山のように君の机に積んである。どんな手を使ってもすぐに帰って来い。」との命令が下った。「他の担当者に回してください!」と、心の中で叫んだ。

やむなく、早朝から深夜までJFK空港に長蛇の列をなしてならび、チケットカウンターの担当者との交渉を試みる日々が始まった。

JFK空港の周りで何時間も待ち、やっと自分の番がきて、日本まですぐに帰りたい旨を告げると、ほとんど相手にしてもらえず、手でぞんざいに「帰れ」のサインを送られる。それでも、諦めずに次の日も朝から並び、係員に「帰れ」と手を振られる日々が続いた。

このままでは埒があかないと思い、考え抜いた結果、NYにはJFK空港以外にも2つの空港があり、最も小さいニューアーク空港に行けば、何とかチケットを入手できるのでは、と考えた。ほとんど、やけっぱちである。ところがこの考えがズバリ的中した。何度も乗り継ぎが必要で、日本まではかなりの遠回りにはなるが、その晩中に出国できるチケットを、親切なカウンターの係員がアレンジしてくれたのだ。

一度でも乗り換えに失敗すると、南米の砂漠の中の空港に置き去りにされる可能性もあったため、必死になってトランクと妻の手をとって走った。

かなりの走りこみと、大声で「Wait!!, Wait!!」を絶叫しまくったおかげで、なんとか乗り継ぎに失敗することなく、名古屋空港に到着した。名古屋駅から東京行きの新幹線が発車した。発車の瞬間、大げさではなく、生まれて初めて生きていること自体に対する感謝の気持ちで一杯になった。一瞬で、ニューヨークの街であれだけ大量の人が亡くなったのに、自分はこうして母国に帰れる、ありがたい。。。と。それにしても、売店で購入した味噌カツ弁当の味は一生忘れないだろう。美味しかった。

現在、名古屋には大切なクライアントさんがいくつかあり、たびたび出張に行くが、新幹線の名古屋駅に着くたびに、あの事件と味噌カツ弁当の美味さが想い出される。

。。。。と、これが、一人の本庄卒業生の社会に出てからの活動(?)の一つです。在校生の皆様、同窓生の皆様など、ご参考になりましたでしょうか?

(東京・銀座のオフィスにて、2010年7月24日)

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