2010年8月25日 (水)
【39】本庄での記憶
4期生の大江です。
同期の原岡からエッセイを書くよう頼まれたのですが、なにせもう20年以上も前の事になるので、「よく覚えていない」というのが偽らざる気持ちです。
が、断片的になんとなく覚えていることをつらつらと書いてみます。
そもそも、勉強をした記憶が全くありません。
記憶にあるのは、県北特有のうだるような暑さの中、エアコンが効かない教室の一番後ろに陣取って、パンツ一枚で寝ていた自分・・・。
「万物の源は、水である」、毎回クラスを二分して、論議を戦わせていた冷牟田先生の倫理。
GDPでは、国の豊かさは測れないと主張していた「がばちょ」。
趣味のゴルフを授業に取り入れた若林先生。
教科書の解説を一回もしてくれなかった(ような気がする)化学の小野先生。
2年生以降、○すら一つももらえなかった必須の代数幾何、基礎解析、微分積分。
(よく考えてみると、僕が赤点を回避できたのは、論理的におかしい。まぁでも、そうした先生方のご配慮を頂戴出来るのが、本庄のいいところですね(笑)。かなり自分勝手な解釈ですが。)
英語もやたら授業数があり、何冊もサイドリーダーだったかな、日本語の小説にすら興味がないのに、英語の小説?を無理矢理読まされていたような・・・。あぁ、でも「ドラキュラ」だけは、なんか最後まで読めた、読めた。いまでもなんとなく覚えている。展開にドキドキしたし、面白かった。
選択科目で、現文とって、「黒い雨」の研究のためとか行って、広島に行ったなぁ。
初めて青春18きっぷを使って、広島まで、夜行を乗り継いで行ったんだよね。
・・・・・・。
で、今になって思う訳ですが、
そうした本庄での生活を過ごしたおかげで(ほんとにそのおかげかどうかは分かりませんが)、何にも答えがないんだけど、何か無理矢理答えを引っ張り出す術だとか、カンニングをしてそのまま答えとするのではなく、友人の回答を基に、自分の見解を加えてオリジナルにする術なんかは、身についていたのかも。
ずぶとく生きられるよう、足腰を鍛えてもらってたのかな。
本庄が、そうした教育方針なのかすら、謎ですが(笑)。
ホント、いい意味で特殊な学校ですよね。今はどうなのかな?
また、なにか思い出したら、書いてみます。
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