2011年5月11日 (水)
【49】早稲田が、本庄高等学院が大好き
27期生 木暮 美季さん
初めてリレーエッセイを書かせて頂きます、27期生の木暮です。
今回は自分が3年間在籍した応援部を通じて考えたことを書きたいと思います。
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5月2日に母校を訪れました。
最後に訪れたのは学部ごとの進学セミナーの時でしたので2月25日だったと思います。
2か月と少しぶりということになりますが、かなり時間が経ったように感じました。
相変わらず本庄早稲田駅周辺は工事のため騒がしくなっていましたが、青々とした大久保山はまるで「お帰り!!」とでも言うように出迎えてくれました。
「心のふるさと」だと思いました。
今回母校を訪れたのは自分の在籍していた応援部の練習を見学するためと後輩たちの顔を見るためでありました。
大学での部活動がまだ開始していないので少しでも応援部の空気を味わっておきたかったですし、自分が3年間活動してきた部活をこの先引っ張って行ってくれる後輩たちにOGとして会ってみたかったのです。
共学化されてから応援部に設置された「チアパート」には毎年たくさんの新入生が入ってくれるのですが、応援部の元祖である「リーダーパート」は部員不足で悩む年もありました。
しかしそんなリーダーパートに今年は4人の新入生が入ってくれたそうで、今後の応援活動に期待してしまいます。頼もしい限りです。
後輩たちは私の来校を歓迎してくれ、私の近況報告に対して声を上げて笑ってくれました。
ついこの間まで中学生だったらしい新入生はみんな明るくて笑顔の可愛い子たちでした。
リーダーの新入生は4人ともすでに礼儀を教えられ、私にも丁寧に挨拶してくれました。
先輩が後輩にダンスの振り付けや拍手の指導をしているところを見て笑みをこぼさずにはいられませんでした。
私もいつかは先輩方にそのように指導をして頂き、いつかは後輩たちに指導をしていたのです。
それを現在OGとして見ているなんて…と思っただけで何故だか温かい気持ちになりました。
思えば私が本庄高等学院に入ると決めたきっかけは応援部の存在でした。
中学3年生の時に稲稜祭に訪れ、応援部を一目見ただけでここを受験しよう!と決意したのです。
私は中学まで「闘う人」でした。自分が競技をし、勝ちにいくための努力をする立場でした。
合格して応援部に入部したはいいものの、今まで闘う人だったのが急に「応援する人」に変わって戸惑うことはたくさんありました。
世間の人に「応援部に入っているんだ」というと「自分がプレーするほうが絶対に楽しいよ」と批判されることも多々ありました。
しかし、応援部に在籍している間にそれまで気付かなかったことが身に染みてわかるようになりました。
ここではそれらを語り尽くせませんが、自分が応援部に入って得た最大の宝は「自分の学校の校歌や応援歌を誇りを持って歌えること」です。
自分の応援していた本庄高等学院のチームが勝利して校歌を歌った時、稲稜祭の後夜祭でステージ上から全校生徒がいい顔で紺碧の空や校歌を歌っているのを見た時、卒業式で誰も頼んでいないのにいきなり紺碧の空を歌って騒ぎ出す男子たちを横目にした時、私はこの上ない幸福感に包まれます。その度に私は「早稲田に、本庄高等学院に入って本当に良かった」と思うのです。
このように校歌や応援歌で生徒が一体となったり盛り上がったりする学校はなかなかないでしょう。
私はそんな早稲田が、本庄高等学院が大好きです。
応援部に入ったことによって人一倍そう思えているのではないかと自負しています。
楽しそうに且つ、真剣に練習に励む後輩たちに元気をもらいました。後輩たちありがとう。
これからさらに努力を積んで早稲田を、本庄高等学院を大好きになってもらいたいです。
そして私は3年間そこで得たものを大学で活かしていきたいです。そして今後、愛する本庄高等学院の後輩たちのために何でもしていきたいと思います。
乱筆でまとまりのない文章でしたが最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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尚、掲載させて頂きました写真は現在応援部の部室に飾ってある部員の手形が押された臙脂の布です。額縁に入っています。
私が3年生の時にリーダーパートとチアパートの合同合宿が初めて実現されました。
その合宿最終日前夜に「ここに全員で合宿を無事に行えた記念として手形を押そう!」というイベントを私が企てました。
現在も部室に飾ってもらえていて嬉しかったです。
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