2012年3月21日 (水)
【71】バレーボールに明け暮れた3年間
28期生 木下 浩平さん
私は3年間バレーボール部に所属していました。中学校でバレーボールに出会った私は、埼玉県でも有数の弱いチームに所属していました(笑)。我がチームは県大会はおろか、地区大会でも初戦敗退が続くチームでした。
高校入学時には、ラグビー部に入るかバレー部に入るか迷った末に、バレー部に入ることを決めました。
親にそのことを話すと「早本は県大にも出ているチームなのだから、あんたじゃ無理じゃないの?やっていけるの?」と言われました。確かに、中学時代に県大会の出場経験が全くないというのは、私にとって大きな不安要素でした。
部に入っても、試合に出場することや活躍することを保障してくれるわけではありません。しかしそれでも私がバレー部に入ろうと思ったのは、上手くなくてもバレーが好きだったからだと思います。
そして高校での部活が始まりました。
1年生前期は練習の補助を中心に活動し、後期からは練習はもちろん練習試合にも少しずつ出場できるようになりました。1年生の終わり頃には公式戦に出場し、あっという間に高校の部活の1年目を終えました。
1年目は、高校3年間で最も技術的に成長した1年だったと思います。
2年目に入り、新入生を迎え新体制でスタートを切りました。
チーム状況の都合により、先輩の代の試合に多く出場できるようになり、直接的にチームに貢献しているという感覚を感じながら前期を過ごすことができました。これは、自分にとって非常に大きな意味を持つことで高校入学前には夢にも思わないことでした。
試合に出場する機会が増えるにつれて、チームに対する思いもドンドン強くなっていき、自分のことだけで精一杯だった状態から一変して、チームのことをよく考えるようになったと思います。時には、敗戦の悔しさや自分のふがいなさから涙を流すこともありました。チームとしての一体感を強く感じた前期は、精神的に大きく成長できた期間でした。このように成長できたのも先輩達が、後輩である自分達と深く関わってくれたからであり、早大本庄バレー部のもつ温かい雰囲気がそうさせたのだと思います。
そして先輩が引退し、いよいよ自分たちの代の体制が始まりました。
部員の10名での活動は、なかなか円滑に進めるのが難しく、後輩との温度差を感じる時期もありました。その中でも少しずつメンバー同士がうちとけ合い、チームとして同じ方向を向けるようになってきました。
最高学年として3回県大会に出場した1年でしたが納得のいく結果を残すことができませんでした。後輩の力を借りての試合が多かったので、なんとか勝ちたいという思いが強かっただけに今でも悔しく思っています。この1年間はふがいない結果が続き、悩みの多い1年でした。毎年恒例の引退試合である六大学付属リーグでは、優勝を狙って臨みましたが結果は4位。チーム敢闘賞をいただきましたが、この結果に満足する選手は誰もいませんでした。高校生活最後の試合となった明治大学明治高校戦では、連戦の疲労がピークに達した中での激闘も制することができませんでした。試合終了のホイッスルが吹かれ、悔しさから涙を流しました。普段は人前で涙を見せることのない私ですが、声をあげて泣いたのを今でも覚えています。同期のメンバーも皆泣いていました。18年の人生で一番長く、一番大胆に泣いた日だったと思います。
高校生活最後の1年は結果を出すことはできませんでしたが、自分の高校の部活の3年間を必死に頑張ることができたから、あの日涙が止まらなかったのだと思います。また、自分一人ではこの3年間を充実させることはできなかったし、同期はもちろん先輩や後輩、顧問の先生方に支えてもらって成り立っていたと思います。
この3年間の部活動は、私の人生における大きな財産であると感じていますし、早大本庄バレー部に入って本当に良かったと思っています。これからも歴史を受け継いで、後輩たちに頑張ってもらいたいと思っています。
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