« 第6回 まむし会ゴルフコンペのご案内 | トップページ | 【創部30周年記念】ブラスバンド部第21回定期演奏会 »

2012年8月15日 (水)

【78】最後の早慶戦

15期生 町川 高明さん

早稲田大学の年間行事において、欠かせないイベント ――― 早慶戦。
現在ではさまざまな種目の対抗戦がありますが、今回取り上げるのは早慶戦の起源となった野球です。

早慶両校の野球部対抗戦は、日本野球の創成期において大変な人気を博しました。
東京六大学野球連盟の結成、各地のアマチュア野球の形成、プロ野球の発足へと続く
日本野球の礎となり、その発展に大きく貢献しました。

本庄高等学院が開校された1982年4月よりも遥か昔、
1943年10月16日に「最後の」早慶戦が行われたことを皆さんはご存知でしょうか。

本庄高等学院へ入学した場合、早慶戦の舞台である神宮球場が地理的に離れていることから、
必ずしも学院生の多くが観戦に行っている訳ではないと思いますが、
我々の先輩が歩んだ歴史を知っておくことは、学院を卒業後、早稲田大学へ進学するにあたって
有意義であると思い、今回のエッセイのテーマを設定しました。

---

さて、冒頭に「最後の」と書いたのは、映画のタイトルからの引用です。

昨日、映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』(2008年8月公開)を鑑賞する機会に恵まれました。
時代背景が戦時中ということもあり、今まで知らなかった早慶戦の歴史を知ることができました。

私自身、野球経験はありませんが、戦争を経験していない世代にとって、
このような映画を見ることは貴重な経験だと思いました。
ネタバレがありますので予めご承知ください。

---

時は1941年、太平洋戦争の開戦とともに、日本の戦時色は一層強くなっていました。
野球(ベースボール)は敵国アメリカで誕生したスポーツであり、軍事教練に関係がないとの理由から、弾圧の対象となっていました。
1943年には、文部省が東京六大学野球リーグに解散令を出すに至りました。

東京六大学野球の加盟校は次第に活動停止に追い込まれましたが、
早稲田大学と慶応義塾大学の両校は辛うじて練習を続けていました。

学生は26歳まで徴兵を猶予されていましたが、太平洋戦争の広大な戦線の維持や戦局悪化によって顕著となった兵力不足を補うため、しだいに猶予期間が短くなってきました。

そして1943年10月2日、ついに文科系学生の徴兵猶予が撤廃され、在学中の出征が決定しました。

こうしたなか、慶応義塾大学の野球部は塾長に「最後の」早慶戦の開催を申し出たのです。

 『ひとたび戦地に赴けば、生きて故郷の、そして学舎の土を踏むことは叶わないかもしれない、
  せめて最後に試合を、出来るならば早稲田と試合をしたい……』

慶応義塾大学の塾長はこの申し出を快諾、早稲田大学野球部顧問のもと訪れ、早慶戦の開催を申し入れました。
この申し出に早稲田大学野球部は大いに喜びましたが、試合実現には大きな障壁が立ちはだかったのでした。

軍部や文部省の弾圧に抗しきれず、早稲田大学当局が試合の申し出を応諾出来ないでいたのです。

出征の日が迫るなか、早稲田大学野球部顧問は大学の反対を押し切り
野球部として責任を持って試合を行う決意をしました。

「学生野球は教育の一環である」と考える早稲田大学野球部顧問は、
学業半ばにして戦地に赴く学生へ壮行試合をさせてあげたいとの熱い思いを貫いたのです。

試合は戸塚球場(跡地は現在の早稲田大学中央図書館)で行われ、
慶応義塾大学がエース不在等万全の態勢でなかったこともあり、早稲田大学が大勝しましたが、
試合が終わるやいなや、慶大生が『都の西北』を、早大生が『若き血』を歌い上げ、「戦場で会おう」との言葉を交わしました。

勝ち負けを超えて称え合う精神、戦争に送り出される直前の状況においても前を向いて生きる意志の強さが、伝わってくるシーンでした。

試合から5日後の10月21日、激しい雨のなか明治神宮外苑競技場(跡地は現在の国立競技場)で出陣学徒壮行会が行われ、多くの学生たちは出征しました。

今を大切に生きたいと思った、そんな映画でした。

エンドロールで流れる鬼束ちひろさんの「蛍」が最高の締めくくりになっています。

以上

(2012.8.12記)

同窓生リレーエッセイ」カテゴリの記事

■トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 【78】最後の早慶戦:

■コメント

■コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。